ヤマガタンver9 > 「駅」のはなし(8) 駅舎は絢爛たる爛熟期へ?

Powered by samidare

▼「駅」のはなし(8) 駅舎は絢爛たる爛熟期へ?

「駅」のはなし(8) 駅舎は絢爛たる爛熟期へ?/

 戦後復興期には店舗や食堂などを第三者が負担して建設、運営する「民衆駅」が生まれた。昭和48年の国鉄法改正施行によって、国鉄自体が駅舎内での諸施設の運営を行う「駅ビル」が登場。さらに昭和50年代後半からは、地方都市における公民館やギャラリーなどとの合築による「コミュニティーセンター」が生まれている。そうした歴史を踏まえて、『駅のはなし(交通ブックス104)』は、あとがきで次のように締めくくっている。

 昭和62年(1987年)4月、国鉄が解体しJRへと経営が引き継がれていった。鉄道は新たな時代へと突入し「鉄道ルネッサンス」を迎えた。その間駅舎は大きく様変わりしていった。駅舎は出会いや別れといった列車にまつわる古典的な役割の場に加えて、市町村の出張所や集会所、図書館やギャラリーセンター、物産館や温泉を併設するなど、駅舎は地域のコミュニティセンターへと様変わりしつつあり、大都市では多機能の複合施設を備えた駅ビルスタイルへと変貌しつつある。新生JRの誕生は、駅舎黄金時代への幕開けとなった。駅舎は、爛熟期へ向かって、それぞれに声高に個性を主張し始め、試行錯誤の途についたばかりである。10年先か20年先か、駅舎は絢爛たる爛熟期を迎えるであろう。楽しみである。

 フラワー長井線も公民館との合築による改築を行ってきた。それは国鉄時代の駅舎が廃屋に近い状態だったから、公的施設との合築として整備するしか手段がなかったからである。さらに令和3年には長井市役所と長井駅、山形鉄道本社の合築も行っている。それらは存続の危機を脱出するための必死のあがきのようなものである。「駅舎は絢爛たる爛熟期を迎えるであろう」というが、多くの路線が廃線となり、廃駅の危機にあるのが実状であろう。ローカル線の存続意義、駅の意味、そしてここに生きる意味を考える必要があると思うのだが。

【おらだの会】写真は1986年(昭和61年)9月5日の時庭駅。写真帳には「はなはだしい荒れ方であった」と記載されている。1996年(平成8年)に公民館と併設で新設されている。山形鉄道は1988年(昭和63年)10月に開業した。


2025/12/25 06:10 (C) おらだの会3
(C) Stepup Communications Co.,LTD. All Rights Reserved Powered by samidare. System:enterpriz [network media]
ページTOPへ戻る